2013年8月9日金曜日

忘れてはいけない原点

 ある雑誌で丸7年続いた連載が終わった。日本が占領下にあった68ヶ月を、絵解き風に短く綴ったものだったが、とりあげたテーマの多くは当然ながらいまに尾を引いている。しかし、大元を忘れた論議のあらぬ展開がなんと多いことかと、あらためて驚き、考え込まされることしばしばであった。

 戦後の痕跡は、日々の新聞、テレビにいくらでも登場する。麻生副総理のワイマール憲法発言は、憲法改正をめぐる早とちり。オスプレイの配備でも尖閣問題でも、日米安保条約の枠組みが関わる。そもそも米軍基地の存在がある。

 折から、キャンプ・ハンセンに救難ヘリが墜落した。報道は、危険にさらされる住民、米軍基地の沖縄偏在、そもそも基地は必要なのかと、いつもの議論の蒸し返しである。しかし、なぜ沖縄に基地があるのかという大元の論議がない。大元には触れずに、末端の事象ばかりが云々されるというのは、どう考えても奇妙だ。

 そのくせ憲法改正である。「アメリカが作った憲法だから」と主張はまことにシンプルだ。アメリカが作ったのは確かだが、このいい方は必ずしも正しくない。マッカーサーは日本政府に草案づくりを迫っている。が、結局「日本人には作れなかった」というのが正しいのである。

 例えば、基本中の基本「主権在民」だ。日本側の草案でこれをうたったのは、「憲法研究会」と共産党案だけで、政府調査会の松本試案をはじめみな「国家主権」「天皇統治」だった。その松本烝治が「そこをいじったら殺される」といったと、のちに白洲次郎はいっている。マッカーサーが日本側の作業を見限った最大の理由だった。

 「戦争放棄」は、天皇制存続と引き換えに幣原首相が出したとされる。天皇制を潰そうとする極東委員会の圧力の中で、日本側にも選択の余地はなかった。しかし、できあがった草案は立派なものだ。のちのシャウプ勧告もそうだが、アメリカですら実現していないものがいくつも入っている。ある意味、世界の理想だったのである。

 そしてなによりも、日本国民の大多数は新憲法にホッとしたのだった。「もう戦争はない」「やっと平和に暮らせる」と、これ以上切実な願望はなかった。制定の過程がどうあれ、いいものはいいと。この時代の空気がいま、すっぽりと抜け落ちてしまった。

 今を考える上で肝心なのは、その後米国が占領政策を転換したことである。ソ連の核保有と共産中国の誕生とで、「日本を反共の防波堤にする」必要に迫られた米国は、なりふり構わず共産党と労働運動を叩き潰す。

 その最中に勃発した朝鮮戦争は、日本経済を生き返らせ、日本を反共陣営に加えた。仕上げが講和条約と日米安保条約だ。憲法で軍備をもたない日本に他の道はなかった。そして60年。安保体制は当たり前のものになった。これが現実である。

 だからこそ、憲法改正は奇妙なのだ。もう忘れているようだが、安倍首相は前の政権で、憲法改正手続きの後段、国民投票を過半数で成立と改めている。今度は議員の発議を過半数にしようという。顔に合わず入念で姑息なのだ。が、安保体制をそのままに、何を改正しようというのか。

 先に出た新防衛大綱の中間報告では、北のミサイルへの対処能力の強化として、敵基地攻撃能力の保有を云々していた。首相はまた、自衛隊を国防軍にするともいう。名前なんぞ何だって同じことだが、その自衛隊は、米軍の存在を前提に成り立っている。もし日本が軍事力で「普通の国」になるというのなら、憲法より先に安保をなんとかするのが筋であろう。

 いま威勢のいいことをいっている連中に、あらためて聞いてみたい。「では、中国と一戦やってみるかい?」と。そして「そのとき戦場に駆けつける気概があるかい?」。声の大きな連中は年寄りで、間違っても戦場に行くことはない。ならば「子どもや孫を前線に送り出せるかい?」と。

 「普通の国」とは、そういうことなのだ。常に臨戦態勢で備えるもの。いざとなったら、国民こぞって戦う。しかし憲法のお陰で、日本はそれを考えずにきた。代わってずっと臨戦態勢でいたのは在日米軍だった。

 ありていにいえば、いまの日本に米軍抜きで中国と事を構える軍事力はない。気概もない。といって、戦力を強化して「普通の国」になるには、老人ばかりの貧乏国に転落する覚悟が要る。それに賛成する国民がいるだろうか。おそらくゼロに近いだろう。

 つまるところ、いまの日米安保体制以外に日本の選択肢はない。安全を他国に委ねて「虫のいい話」だが、それもこれも憲法のお陰である。ところがその憲法で、集団的自衛権の解釈を変えようという。その急先鋒を内閣法制局長官にもってきた。安保によりかかりながら、何が集団的自衛権だ。体裁づくりの茶番である。

 そんなことより、沖縄の負担軽減だろう。ヘリ墜落のニュース映像は、米軍がなぜ沖縄にこだわるかを、はっきりと見せた。あの広大な原生林は、海兵隊の実戦訓練に最適なのだ。しかし沖縄には沖縄の意志がある。オスプレイで問題になった米軍の管制空域は、占領時代そのままだ。これこそ交渉マターではないのか。


 これで思いだした。白洲次郎が面白いことをいっている。占領下で平気で米軍に立ち向かったのは、旧内務省出身者。一番ビクビクして追従したのは外務省出身者だったと。いまもビクビクしているのはだれなんだ?

2013年2月4日月曜日

警察の手のひらで踊る


 報道の展開が実に奇妙だった。スイス在住の資産家、霜見誠さん(51)夫妻が行方不明になっている、という噂みたいな話がテレビのワイドで流れた時には、もう警察はあらかたの捜査を終えていた。だからメディアによっては、第一報が遺体の発見と犯人1人の逮捕と同時、という珍しいことになった。 

 一昔前だったら、全く違ったはずである。捜索願が出た段階から、「こんな妙な話があるぜ」と話が漏れてきて、まずはテレビや週刊誌がああだこうだと大騒ぎ。新聞も取材は続けながらも、書くタイミングをさぐっていたに違いない。しかも捜査がこれほどすんなり進んだとは思えない。警察もメディアも手探り。古き良き時代である。 

 どういうことかというと、いまメディアは完全に警察の手のひらで踊っているにすぎないのだ。彼らは確定した筋書きしか出してこない。今回は捜索願からだから、警察は端からマイペースで動けた。捜査を終えて、犯人を特定して、逮捕状を取って、遺体を発見して、「さあもう書いてもいいよ」と。 

 だから、こんな込み入った奇妙な事件なのに、テレビも新聞も判で押したように同じ筋書き、同じような証言・映像を並べて、主犯の逮捕を待った。犯行の目的や動機、経緯はいずれわかると。案の定主犯の水産加工会社社長、渡辺剛(43)が自殺未遂でみつかって、一件落着。残るは哀れなイヌの行方くらいだ。 

 ある意味では、仕方がないともいえる。メディアが動ける場面はおそろしく限られているのである。いまの捜査には、昔なら考えられないような手だてがずらりと並んでいる。いちばんは防犯カメラだ。 

 被害者の夫妻がイヌを連れてマンションを出るところ。付近に停まっていた不審な車。その車は同じ日に、日光近くを走っていた。例の交通車両監視システムである。車の持ち主がわかる。被害者の関係から、容疑者が浮かぶ。彼らは偽名で宮古島便に乗っていた。そんなことがどうして? とにかくわかるのだ。 

 だから早い。昔ながらの聞き込みだけだったら、下手をすれば迷宮入りだったかもしれない。犯人は第三者に土地を買わせ、アナを掘らせ、車を買わせた。その車を使っての犯行‥‥昔ならほぼ完全犯罪である。まさかその車から足がつくとは思わなかったのだろう。 

 監視システムとデータの解析技術は、この数年で飛躍的に進歩した。昨秋の六本木の襲撃事件や通り魔に近い事件までが、防犯カメラから割れている。加えて、DNAがある‥‥今回は車の血痕で、たちまち被害者と特定されてしまった。どれひとつをとっても警察にしかできないことだ。 

 メディアは、警察が口を開かなければ、何もわからない。今回、漏れてきたのは全部終わったあと。犯人こそ捕まっていなかったが、被害者周辺、遺体の発見場所、不動産屋、みなご指定だ。だから、どのニュースを見ても同じ。自前で動かないから誤報も起らない。何とつまらない時代になったことよ。 

 気になるのは、警察の捜査がうまくいかなかったらどうなるかだ。神奈川県警が29日、川崎市内で女性を刺した容疑者の防犯カメラ映像を公開した。刺されたのは昨年10月だ。3ヶ月経って捜査が手詰まりになったのである。警察とはそういうもの。事件の翌日ならもっと効果がある、などとは考えない。 

 時効に終わった警察庁長官狙撃事件は、オウム真理教の犯行だと思い定めて、捜査の基本を踏み外したのがつまずきのもとだった。時間が経ってからでは、聞き込みは効かない。しかも、時効の会見でなお「オウムだ」といいはったばかりに、オウムの後身の教団に訴えられて負けたのは、つい何日か前だった。 

 いまなら防犯カメラがあちこちで助けてくれたかもしれない。都市部ではいまや、一般市民でも防犯カメラをよけて通るのは難しい。だが、その映像の公開ですら、警察がその気にならないといけない。メディアが取材に走り回る余地は、ますますなくなった。 

 09年5月、愛知県蟹江町で起った母子3人殺傷事件は、現場で警察官が犯人を目撃していながら取り逃がし、以来3年半の間、ニュースはゼロだった。昨年12月、別の事件のDNAから中国人の男(29)が逮捕された。つまり、警察がドジを踏んだら、それっきりなのである。 

 折から、国境なき記者団が発表した「報道の自由度ランキング」で、日本は昨年の22位から53 位に落ちた。福島原発事故取材で、政府と東電のカベを破れなかったことを、世界のメディアは見ていたのだった。 

 先頃朝日が書いていた。記者は現地へ入りたかった。それを上が止めたのだと。しかし止まっちゃったら同罪だろう。まして2年近く経って紙面に書くことかよ、といいたくなる。そのとき問題にしなかったことを、世界は指弾しているのだ。 

 嫌な連想だが、今の日本メディアの「ご用聞き」体質は、ひょっとしてこの辺りから出ているのではないか。警察が口を開いてくれるのをじっと待っている若い記者たち。彼らはやがて、官庁や財界、政界を担当するようになる。 

 ところが今の担当記者たちですら、十分に「ご用聞き」だ。すでに世代をまたいでしまっているということか? これは重大だぞ。   

2013年1月3日木曜日

「男女平等」のウラのウラ



 日本国憲法の草案作成に携わった最後の生き残り、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなった。89歳だった。22歳のとき書いた「男女の平等」草案は、立派に戦後の日本社会を支える柱となった。その作成過程をみると、むしろ「22歳だからできた」という面もあったようだ。 

 憲法改正論者には、「そんな小娘の作ったものを」というのがあるのは間違いない。しかし、「男女の平等」に関しては、別に面白い証言が残っている。 

 連合国軍総司令部(GHQ)で、財閥解体を主導したエレノア・M・ハドレーという女性がいた。戦前の日本政府給費留学生で、日本国内から支那事変の中国にまで足を伸ばして、軍部と財閥の関係をつぶさに見ていた。後に国務省の経済担当官になり、日本の民主化には財閥解体が必須と主張した人だ。これが統合参謀本部の指令として占領政策の柱になった。 

 財閥側は巻き返しに出た。GHQの担当者を「酒と女」の接待作戦で籠絡、指令は相当程度骨抜きになりかかった。そこへ乗込んできたハドレーは、「指令をはずれている」と元の厳格な方針に戻してしまう。女に「酒と女」は通用しなかったのである。 

 面白いのはこの先だ。彼女は、同じ財閥解体を担当するチームの男性スタッフよりひとつ後の船で、たった1人で赴任してきた。その理由を彼女は「女だったから」という。また、国務省でも、同じ部屋の男性スタッフから昼食に誘われたことは一度もなかったという。 

 彼女が特別ブスだったり鼻持ちならない女だったわけではない。写真を見ても魅力的な美形である。日本在勤中、外国特派員協会の記者たちとは多いに交流して、GHQの参謀2部(G2)から「共産主義者」のレッテルを貼られているほどだった。 

 彼女は「当時はそれが当たり前だった」といっている。ハーバード大へいけなかったのも、同大が女性を受け入れなかったからだ。アメリカの男女平等を日本人が目のあたりにしたのは、女性将校に男性兵士の護衛がついている姿だった。これは鮮烈だった。だが、そのアメリカでも男女差別は厳然としてあったのである。 

 当時の米国憲法に男女平等がうたわれていたかどうかは知らない。たとえ書かれていたとしても、ゴードンさんの頭には、アメリカの現実があったはずである。「アメリカにもないものを」と一種の理想を追う姿は、憲法以外にも占領政策の随所に見られるのである。

 憲法草案作成には2つの面がある。ひとつは、日本人にはどうしても作れない部分があったこと。天皇の地位がいい例で、廃位とする共産党以外は、日本側のどの草案も帝国憲法を引きずっていた。日本国は天皇のものなのだ。主権在民といういまでは当たり前のことすら満足に出てこなかった。GHQが、日本側の策定作業を見限るに至った大きな理由である。 

 もうひとつは、リベラリズムや学問上から理想とされる形を、日本という民主主義形成の実験場に持ち込んだことだ。一種の政治的取引であった「戦争の放棄」は別として、ある意味日本国憲法は「あるべき理想」だったのである。草案はむろん日本側との擦り合わせを経て確定している。 

 通訳も務めたゴードンさんは、「その結果多くの修正がなされた」といっている。いま改憲論者がしきりにいう「アメリカが作った」という主張は、必ずしも正しくない。日本側だってイエスマンばかりではなかった。GHQが100%押し付けたわけではなかったのである。 

 民主主義の本家を自認するアメリカは、なかなかに律儀であった。軍国主義者排除のために強行した公職追放でも、実は異議の申し立てができた。日本側とGHQと二段階の審査機関が設けられ、カテゴリーによっては40%近くも異議が通っている。 

 戦後経済建て直しのドッジラインを税制面で支えた「シャウプ勧告」は、当時のアメリカの最高の専門家の手になる。課税の平等が大きな柱だった。なかで有価証券取引への課税など、アメリカではウォール街の圧力で実現できないものも含んでいた。これも「理想」である。 

 勧告は前文で「勧告の一部が排除されると、他の部分は価値を減じ有害ともなる。その責任は負わない」とあった。が、占領の終了とともに、「理想」はズタズタになった。勧告のひとつの柱だった地方税の拡充強化は、いまだにできていない。責任を負うべきは、日本側なのである。 

 先の選挙で声高にいわれた改憲論の多くは、作成過程を無視したステレオタイプの批判と論点のすり替えである。曰く、家族がおかしくなった。教えたのは日教組だ。そうさせたのは憲法だと。違うだろ。だれも憲法なんか気にしていない。社会規範がおかしくなったのも、憲法のせいじゃなかろう。 

 その憲法のもとで、自由を目一杯享受して育った世代が、憲法を変えようという奇妙。現行憲法を尊重しない連中が、新しく作る憲法は尊重しろだと? よくいうよ、まったく。 
   
 ゴードンさんは最後まで、日本の女性の権利を心配していたそうだ。60年前のアメリカと同様、実態は条文の外にある。閣僚や経営幹部に女性が少なくても、決して憲法の文言のせいではない。

2012年12月7日金曜日

定点観測で大掃除ってのはどうだ



 結局政党は12になった。4日公示された衆院選は、小選挙区で1294人が届け出て、比例区では未来、維新でかなりの届け出の遅れが出た。どたばた、といっていい状況は、野田首相の仕掛けが当たったといえなくもない。政局という言葉は好きになれないが、今度のは久しぶりに面白い。 

 野田のねらいは、明確に第3極潰し、さらには小沢潰しだった。だれもが年末・年明けと読んでいた解散を早めれば、政策調整やらなにやら混乱を招く。年が明けなければ政党交付金は入らない。民主の離党にも歯止めがかかる‥‥この目算だけはちょっと外れたが、野田という男は相当な策士である。今の民主でここまで腹がくくれる人間はいない。 

 案の定第3極は大混乱になった。橋下徹の日本維新の会と石原慎太郎の太陽の会がくっついて、橋下・石原の個人の好みが優先したことで、政策面ではおかしなことになった。維新と協調のはずだったみんなの党がはじき出され、同じく袖にされた河村たかしの減税日本も、亀井静香とくっついたり。 

 さらに「後出しじゃんけん」で嘉田由紀子・滋賀県知事が「未来の党」で「この指とまれ」とやるとは、誰も予測できなかった。野田にも想定外だったろうが、実は「国民の生活」の小沢一郎が仕掛人だったのだから、これまた相当なものである。しかし第3極は3つないし4つに分断され、結果的に野田の狙いは当たった。 

 勝ち負けはともかく、野田は、敵を自民と思い定めている。今の小選挙区制では小さい政党に芽はない。3極が混乱すれば、あとは自民だ。なんとか踏みとどまれると読んだようだ。 

 解散の時点で何人かの評論家が、選挙での議席数を予想していたが、大方は自民、維新、民主とする中で、田原総一朗だけが「民主は意外に善戦する」と2位にしていたのが面白い。メディアも多くが第3極の混乱を読み切れず、ことの展開でそれに気づくまでに一拍あった。 

 解散でいちばん青くなったのは、小沢一郎だったろう。民主党を抜けて48人を擁していても、中身はチルドレンとがらくただ。「消費税反対」と「脱原発」では支持率もあがらない。新聞からも、しばらく小沢の名前が消えていた。 

 彼は必死だった。動きも素早かった。直談判で嘉田を説き伏せ、嘉田が会見すると即日合流を決めた。しかも、自らは役職に就かない。なりふり構わぬとはこのことだ。 

 メディアは一斉に、「小沢は母屋を乗っ取るのではないか」と書いた。「未来」の国会議員の大半は小沢派だ。候補者選定のメカニズムもない。公示まで1週間。選挙は小沢が仕切ることになる。たしかにいつか来た道だ。 

 ここで民主からも自民からも「(未来は)民主党の二の舞いになる」という声が上がったのが面白い。小池百合子はテレビで、「3年間まざまざと見てきた。また同じことをやるのか」とまでいった。かれらは冷静にみていたのだった。 

 民主党のごたごたの元凶は常に小沢だった。小沢がいなくなれば、民主党はすっきりする。だれもがわかっていたこの構図を、だれも口にせず、メディアも書かなかったのは、数の論理と「小沢待望論」がセットであったからだ。 

 小沢が新人議員に「君らの仕事は次の選挙で当選することだ」といったとき、バカなメディアは反発もしなかった。小沢待望論はメディアにも根強くあったのである。有権者にいわせれば、そんな議員要らない。戻ってこなくていい。小沢もまた要らないはずなのだが‥‥ 

 彼はとりあえず、票になる組織を手に入れた。「卒原発」以外になかった公約に、あれやこれや付け加えたのも、「この指とまった」面々を選挙区・比例区に割り付けたのも、小沢であろう。この辺りはプロだ。あとはいつものドブ板選挙‥‥のはずだった。 

 が、届け出の4日の夕刊を見て驚いた。「未来」は選挙区には107人とあるのに、比例区がゼロ。比例名簿の提出が、締め切りぎりぎりになったのだという。その理由がふるってる。代表代行の飯田哲也が、自分(山口1区の重複)を含めた順位の入れ替えを指示して、大混乱になったのだと。 

 思わず小沢の顔を思い浮かべた。もし間に合わなかったら、小沢も子飼いも「未来」も墓場行きだった。選挙の結果がどうあれ、これが尾をひかないはずはあるまい。嘉田も飯田も小沢が知らない人種である。とりわけ飯田はエネルギー学者で「脱原発」のゴリゴリ。面白いゲームになるだろう。 

 かくて始まった選挙では、消費税と原発とTPPの賛否が入り組んで、まことにわかりにくい。しかし、有権者はバカじゃない。この3年余続いた民主党のごたごたのお陰で、政治の性根がよく見えるようになった。マニフェストが公約に変わろうと、選挙で掲げる政策なんて、おおざっぱな信号みたいなものだ。赤を信用するか、青を選ぶか。 

 それよりも、ここはひとつ視点を変えて、国会に要らない人間を追い出す「大掃除選挙」と考えたらどうだろう。定点観測よろしく、どっかと座って見据えれば、自ずと性根は見えてくる。人間を見よう。素性を見よう。変節を見よう。その方がすっきりして選びやすい。(敬称略) 


2012年11月2日金曜日

写真を取り違えるなんて



 尼崎市の連続死体遺棄事件は、男女8人が死亡または不明という何とも奇怪な話だが、その報道でまた、メディアが脇の甘さをさらけ出した。中心人物として連日名前が出ている角田美代子被告(64=傷害致死などで起訴)とされる写真が別人のものだったのだ。

 読売新聞が最初だったらしいが、共同通信も流したため、ほとんどのテレビ・新聞が使っていた。角田の長男の小学校の入学式で撮った記念写真、という説明だった。長男の年齢からすれば、20年も前の写真ということになるが、角田はすでに40前後だったはずだ。

 そこへ「これは私の写真です」と尼崎市在住の女性(54)が弁護士を通して名乗り出たのである。各社一斉に謝った。面白いのは朝日新聞で、同じ写真を入手していたが、「別人の可能性」があるとして使わなかったという。

 先頃の「iPS細胞移植」の誤報を思い出した。読売が得ダネで報じて、共同も追いかけたが、朝日は取材はしていたが「怪しい」と記事にしなかった。朝日は抜き合いには弱いくせに、疑り深いらしい。それはそれでいいことだが‥‥。

 腑に落ちないのは、同じ写真がどうしていくつものメディアに顔を出したか、である。共同にしても、ヨミからもらうはずはないから、同じ写真をもとに「これが角田だ」と示した人間がいたはず。まずはその人間が確かなのか。さらに、周囲のだれもが「角田だ」と確認したのか。

 そんなはずはあるまい。要するにどこかで取材の手を抜いていたのである。件の女性は、彼女の写真がなぜ「角田」に化けたのかを知りたいといっているそうだ。メディアが誠実なら、遠からず弁護士はそのいきさつを明らかにできるだろう。大いに興味のあるところである。

 一連の報道でさらに腑に落ちないのは、この角田という女の素性が一向に見えないことだ。尼崎出身で4人家族だとか、スナックで働いていたとか、タクシー運転手と結婚したとか、話がとびとびであやふや。近年の女王様暮らしに至るまでが見えてこないのは、実に奇妙だ。

 一昔前なら、市役所へ駆け込んで戸籍謄本から関係者をたどって、芋づる式に素性を割り出すのは、真っ先にやることだった。顔写真なんか、その過程で簡単に手に入ったものである。いま、個人情報保護でその手は使えなくなった。わかっているのは警察だけだ。しかし、その警察から情報がとれない。

 連日伝えられる事件の相関図は、角田被告の縁戚関係と死者・不明者の位置づけだ。8人以外にも事故死や病死者がいて、保険金詐欺を疑われるケースもある。しかし、「戸籍上の妹」だとか、わけのわからない人物が並んで、まるで判じ物だ。

 しかも、肝心の部分——角田から先がない。結婚していたのなら夫はどこへいった、両親や兄弟は、学校は、どんな生き方をしてきたのか‥‥接点のあった人間がいない。警察が知らせたくない、メディアに荒らされたくない部分が、すっぽりと抜け落ちているのではないか。

 事件は今後、死体遺棄の実行犯から殺人の解明へ、さらに金を脅し取ったり、詐取した経緯、保険金にまで伸びていくのだろう。それだけでも前代未聞の出来事だが、警察はもっと先をいっているはず。メディアは小出しの情報で体よく操られているようだ。

 肝心の角田の顔はいまもってわからない。護送される警察車両の後部座席で、カバーの下から片目だけが光っている不鮮明な画像だけだ。そのくせ自宅近くの商店街では、取り巻きを引き連れて歩く姿を大勢が見ている。マンションに招かれた人すらいた。他人の写真と見間違えるはずなぞなかろう。

 写真の取り違えは、取材のイロハを怠ったためだ。だが、情報を一方的に警察に抑えられてしまうようになったのも、メディアが招いたことである。連帯感をなくしてバラバラになったツケといっていい。要するになめられているのである。

 かつては警察でも官庁でも、メディアに受けの悪い役人は絶対に偉くなれないといわれた。ある経済官庁で、会見でよく記者たちに怒鳴られている課長がいた。「なんでボクは叱られるんでしょう」という彼を、特集記事で取りあげた。と、先輩が「君の記事で彼は生き返ったよ」といった。彼はその後とんとんと偉くなって、終いに国会議員になった。

 別にメディアに力があるわけではない。ただ、記者たちの眼を官は無視できなかった。警察でも、各社の警視庁キャップが集まれば、警視総監は耳を傾けざるをえなかった。だからこそ、こっそり情報が漏れてもきた。相互に信頼関係があったからである。

 いま、それが見事になくなった。事件報道の実際を見ていると、メディアはほとんどご用聞き。発表に注文をつけることすらできないらしい。そのくせ、「捜査関係者への取材でわかった」と書く。どんな取材だ。

 ちょうど、警視庁キャップだった先輩の訃報が届いた。メディアも警察も生き生きとしていた時代。古き良きとはいわないが、同じ時代を生きた元キャップは何人もいる。「なんでこうなっちゃったの」と聞いてみたい。彼らも歯ぎしりをしているはずだ。

2012年8月25日土曜日

死んではいけない


 シリアのアレッポでジャーナリストの山本美香さん(45)が死んだ。一報を聞いて「命をかけるほどの報道なんてあるのか」と思った。惜しい。彼女とは昔、衛星放送でわずかながら接点があった。その「美香ちゃん」はその後本物に育っていた。それだけに、ますます惜しい。

 撃たれた場所は、反政府の自由シリア軍と政府軍の民兵が交錯する危険地帯だった。が、残された映像には、赤ちゃんをかごに入れて歩く男性やテラスからのんびりと見下ろす女性や子どもたちの姿があった。通りを普通に人が歩いている。それが突然、銃声とともに途切れる。

 同行していた通信社ジャパンプレス(山本さんが所属)代表の佐藤和孝さん(56)の映像には、通りの反対側を近づいてくる武装した迷彩服の一団がいた。その前方にいた普通の身なりの男が、山本さんらを指して「ヤバーニ(日本人)がいる」と叫んで迷彩服を振り返った。とたんに銃撃が始まった。

 佐藤さんの映像は、通りを走って逃げる。しかし、山本さんはおそらく、映像が止まった最初の一撃で撃たれていた。致命傷は背骨と脊髄への被弾で、防弾チョッキを貫いていたという。至近距離から追い撃ちの可能性もある。

 さらに奇妙なのは、美香ちゃんのカメラにはそのあと、24分にわたって映像が写っていた。拾い上げたおそらく自由シリア軍の兵士が、スイッチをいれてしまい、それと知らずに持ち歩いていたらしい。カメラをのぞき込む男や町の光景があった。また、焦点の定まらない映像には、会話が入っていた。

 「彼女が目を撃たれた」「日本人なのか? 腕を見たか。かわいそうに、すごい傷だ」「見たよ」「やつら(民兵)はひきょうだ。こういう罠は初めてか? 民兵がお前たちの仲間にまぎれていたように見えたが」「仲間のことは全員知っている。そんなことはない」(テレ朝「モーニングバード」)

 中東のテレビ、アルジャジーラは、拘束された民兵の証言から、山本さんの殺害はアレッポの政治治安局の高官の命令だった、と伝えた。シリアでは、今年だけで内外のジャーナリスト27人が命を落としている。外国人記者の殺害は、入国を阻むための脅しだ。数が多いほど効果はあがる。

 そのダシに使われたということだ。相手はだれでもよかった。日本人記者が来るという情報は筒抜けだった。「ヤバーニ」と叫んだ男は、市民にまぎれたスパイだったのだろう。まったく、なんという巡り合わせか。

 シリアに入っている日本人ジャーナリストは少なくない。佐藤さんらも、政府軍の空爆の跡を撮りに入ったのだった。一般市民を無差別に殺している現実を伝えることは、確かに大きな意味がある。

 しかし、酷ないい方になるが、彼らが伝えるニュースのどれひとつをとっても、命をかけるほどのものはない。せいぜいが単発のルポ。大方はニュースのバックに流れるお飾りだ。大手のメディアが、自前の特派員の派遣に慎重なのは、そのためだ。その程度のネタに危険は冒せないと。

 独立系ジャーナリストたちは、いわばその下請けの役を果たしている。アフガン・イラク戦争がその最初だった。彼女と佐藤さんがボーン・上田賞の特別賞を受賞したバグダッドの仕事は、大手がみな逃げ出したあとを撮ったという、皮肉な意味合いもあった。

 しかし、紛争が日常化すれば、空爆も虐殺も自爆テロも、みな日常のものになる。大手メディアは、外電を使って安全なところで記事も写真も揃えられる。が、素材を提供する小メディアは、現場の映像と写真が頼りである。

 その現場での死傷はカメラマンが圧倒的に多い。ファインダーをのぞいていて周囲が見えないからだ。いまは液晶画面が多いが、動画を撮っていれば気配りはおろそかになる。いい絵でなければ使ってはもらえない。ミャンマーで撃たれたカメラマンも、後ろに迫った警官隊に全く気づいていなかった。

 ガンジーが暗殺されたとき、マグナムのアンリ・カルチエ=ブレッソン(HCB)は現場にいた。が、遺体が運ばれた部屋の外からカーテン越しに撮った。そこへ、ライフのマーガレット・バーク=ホワイトが駆けつけて撮り始めた。たちまち取り押さえられて、フィルムを奪われ放り出された。

 殺気立ったなかで、それだけで済んだのはおそらく女性だったからだ。もしHCBだったらそれでは済むまい。直に撮れれば間違いなく歴史に残る写真になる。バーク=ホワイトは正しい。が、身を守るすべを心得ていたHCBもまた正しかったのである。

 美香ちゃんは、「戦場ジャーナリスト」と呼ばれるのは本意ではなかったらしい。「ヒューマンなジャーナリストを目指していた」(父親)という。が、危険を承知で立っていたのは常に悲惨の現場だった。現場より強いものはない。放射能が怖くて福島入りを放棄した大手メディアの記者たちとは大違いだ。

 ただ、それもこれも生きていればこそである。「ヒューマン」だろうと何だろうと、美香ちゃんは手にできたはずなのだ。ジャーナリストは語り続けないといけない。惜しいとはそこなのである。

2012年7月28日土曜日

愛しのストロンチウム


 文科省が、福島第1原発の事故で飛散したストロンチウム90を、福島、宮城以外の10都県で検出したと発表した。検出は当然だろう。問題はその数値である。一番汚染が高かったのが、茨城のひたちなか市という。友人が1人いる。まあ、気の毒なと思ったが、そのあとにあったひとことで安心した。

 朝日新聞の記事の前書きの最後にはこうあった。「これは大気圏内核実験が盛んだった1960年代に国内で観測された最大値の60分の1程度」。私のような70過ぎの人間には、これが一番読みたい部分なのだ。いや、60代、50代だって、知っておかないといけない。

 1960年代は冷戦の最中である。アメリカとソ連は大気圏内の核実験を競い、巻き散らされた核物質が地球を覆っていた。「ストロンチウム90」という名前もしばしば新聞に出た。が、当時は人体への影響を深く報ずるものはなかった。米ソが口をつぐんでいたからである。

 その結果、それと知らずに、世界中が高度の汚染の中に生きていた。福島のあと、日本を逃げ出したお金持ちもいたが、当時はたとえ知ったとしても、どこへも逃げる場所なんぞなかった。世界中がくまなく汚れていたのだから。

 私は20代前半で、大学で山登りをやっていた。北アルプスやらなにやら、3000㍍の山を駆け回っていた。当然、地上よりは濃度が高かろう。その中を、ただ歩くのではなくて登ったり下ったり、ハアハアと目一杯吸い込みながら動き回っていた。

 それからちょうど50年である。どれくらいかはわからないが、私の体に入ったストロンチウム90は、半減期でめでたく半分になったはずだ。この間に、ともにハアハアいっていた仲間たちはどうなったか。バタバタとガンになって死ぬこともなく、大方元気である。

 むろんガンで死んだのもいるが、日本人の平均以上ではあるまい。どころか、平均寿命はどんどん伸びている。まあ、いま60代は当時は10代、50代は幼児期だったから、成人だった私の年代より多少影響が強いかも知れない。が、結果を知るには、まだ10年20年かかる。

 だから、福島の事故のあと真っ先に知りたかったのは、この当時と比べてどの程度の汚染か、だった。しかし、書いている記者たちはずっと若い。50年前がとんでもない時代だったことも知らない。比較した記事も出ない。むしろ、「怖い」「怖い」が表に出ていた。

 被ばくを恐れて記者たちに、原発から30㌔以内立ち入り禁止の指令を出したメディアの幹部は、自分たちが50年前にたっぷりと吸収していたことも知らなかったか。「いまさら遅いんだよ」といってやりたくなったものだ。

 かろうじて、研究機関の汚染データに、当時との比較がちょろっと出たり、汚染の推移を表すグラフがあった。が、このグラフがまた、インチキだ。ケタが上がるごとに指標が10分の1の縮尺になっているので、見た目は一枚の紙に収まっているが、これを等倍に直したら、50年前の数値は天井を突き抜けるのである。

 今回のストロンチウムの記事で、はじめて等倍のグラフが出ていた。チェルノブイリですら小さな山だったので、「まあ、なんという時代だったのか」とあらためて驚いた。ストロンチウムに限らない。セシウムだってヨウ素だって、まんべんなく野に山に、いや世界中に降り積もったのである。

 そこで人はコメを作り麦や野菜を育て、牛や豚、鶏を飼って、何事もなかったように過ごしてきたのだ。これ以上壮大な人体実験はなかろう。あなたも私も、みんなストロンチウム仲間なのである。

 だから、いってやらないといけない。もしアメリカ人が、放射能の汚染を話題にしたら、「お前のじいさんは何てことをしてくれたのか」と。中国の観光客が、東北は怖いといったら、「日本よりも、北京や上海の方がゴビ砂漠に近いんだぜ」と教えてやれ。「雨の降り始めには気をつけろ」といったのは、中国の核実験のときだった。等倍のグラフも忘れずに見せてやろう。

 今回の発表には、「影響はまずない」という解説がついていた。細々した数字があったが、そんなものはどうでもいい。50年前とはケタが違うのだ。気の毒にも、ひたちなか市で一番高い値が出たが、これが最高のはずはない。地震と津波による機器の不具合で、福島と宮城のデータが採れていないからだ。

 その福島では、別の観測ですでにストロンチウム90は検出されている。ひたちなか市で60分の1ならば、原発近くの立ち入り禁止区域では20分の1か、10分の1か。こう考えれば、50年前はにわかに身近になってくる。

 しかしそれでも、「影響はまずない」となるのであろう。解説には言外に「じいさんどもがちゃんと生きてるじゃねぇか」という響きがある。くそったれめ。放射能の次に、高度の環境汚染の中育ったのは、40代のお前さんたちだ。これも進行中の人体実験である。ダイオキシンはストロンチウムより怖いぜ。