2009年9月19日土曜日

毎朝の新聞が楽しみ


 このところ毎朝、新聞を開くのが楽しみだ。政権交代を果たした民主党の動きを伝えるなかで、メディア自体が変わっていくのが目に見えるからだ。

 朝日の朝刊(19日)に、「財源探し競争 号砲」とあったので笑ってしまった。補正予算の見直しで、各大臣が見直し額を競うというのだ。これまでの大臣は、官僚に取り込まれて省益を言い立てるものだったのだから、これは面白い。書いてる記者がのってるのがわかる。

 鳩山首相は最初の会見で、「未知との遭遇」といったが、これはメディアにとっても同じこと。むろん国民にとってもそうである。閣僚の会見のNHKの視聴率が、深夜にもかかわらず7%台という、ちょっと考えられない数字だったのが、「未知」への期待の高さを物語る。

 閣僚の1人ひとりがまた、ペーパーなしで自分の言葉で語った。翌朝の初登庁でも、これまで見たことのない光景がいろいろ見られた。同時に補正予算の見直しが、現実のものとなってくる。これを受け止める官僚たちの動き‥‥。

 メディアが伝えるそれら一つひとつが、これが政権交代なんだという、実感そのものである。記者たちがのりのりになるのも当然。OBとしては、うらやましいなと思うばかり。
 
 いったい何度、期待を裏切られたことか。「黒い霧」だの、ロッキード事件だの、自民の分裂だのと、何があっても国民は動かなかった。唯一、細川連立政権があったが、自滅によって自民が息を吹き返してしまった。

 つまるところ、「日本にはまだ民主主義が根付いていない」と思わざるをえなかった。ただ、そのときできた小選挙区制の導入が、政権交代をドラスチックに実現させたのは皮肉である。

 二大政党制は、本来国民の意識が選択するものであって、選挙制度がつくるものではない。しかし、これだけ大差がつけば、国民も否応なく「一票の重み」を実感できる。政治との距離も近くなるだろう。

 メディアにはまだ、戸惑いがあるように見える。しかし遠からず、目を開くことになるだろう。また、そうでなくては困る。

 突破口のひとつは、核の持ち込みをめぐる「密約」である。岡田外相は最優先で調査を命じた。長年にわたって「存在しない」で通してきた自民政権と外務官僚の口裏合わせが暴かれる意味は、決して小さくない。似たようなことは、どの省庁にもあるはずだから。

 もうひとつは、予算の組み替えである。補正予算の凍結は、とりあえずはマニフェスト実現のための原資の捻出のためとされるが、野党では知り得なかった国家の財布の中身を、担当者としてのぞきこむのだから、様相が変わって当然だろう。

 現に財務省からは早くも、鳩山政権が必要とする以上の捻出が可能、といった読みも出てきている。また、これまではまったく薮の中だった官房長官の機密費や天下り団体への支出だって、新政権がすべて把握することになる。新たな不祥事や無駄遣いもあばかれそうな雲行きだ。

 どれひとつとっても、わくわくするような話ばかり。新政権の高揚感が続くうちが勝負だ。野党担当だった記者たちの腕の見せ所である。これまで与党担当記者の影の存在だったのだが、入れ替わるとなれば、これまた初めての事態である。

 記者会見も変わるという。事務次官の会見がなくなり、大臣が直接やると。藤井財務相ははっきりと、「行政官が省を代表してしゃべるのは許されな い」とまでいった。次官会見は、名前は出さないという奇妙なルール。例の「政府高官は‥‥」というやつで、先頃物議をかもした官房副長官もその口だった。

 大臣がしゃべるとなれば、「政府高官」もへったくれもあるまい。記者側は、実務的な細かい話が聞けなくなるのでは、と心配しているらしい。「各省庁で混乱」などという記事も出た。まあこの辺りは、やがて落ち着くところに落ち着くだろう。

 むしろ、とかく情報を囲い込むような風潮にあったのを、ひっくり返すテコにしたらいい。これも事態が動いている間が勝負だ。

 ところでお気づきだろうか。選挙につきものの「選挙違反」のニュースがこれほど少ないのも珍しい。警察庁は8月29日、「全国で約190件の違反容疑の捜査を進める予定」と発表したが、以後ニュースはぴたっと止まったままだ。

 「案の定」といっていい。警察庁と全国津々浦々の警察が、新政権の動きをじっと見守っているのだ。なにやら滑稽ですらある。

 そんな中、受託収賄事件の被告で上告中の鈴木宗男氏(新党大地)が衆院外務委員長になった。事件そのものを「国策捜査だ」と糾弾している人である。舞台は最高裁だ。あれやこれや、とにかく毎日が面白い。

2009年9月1日火曜日

頭の切り替えが必要なのは?


 テレビの開票速報というのは、時間勝負のあだ花である。時が経てばはっきりするものを、ほんの少し早く勝った負けたと伝える。技術の進歩か、今回はやけに早かった。だが、あまりに「当選」「当確」が早いと、正直「大丈夫かよ」と心配になる。

 事実間違いはよくあるし、今回も散見した。ただ、テレビはすぐさま訂正ができるから、翌日まで訂正ができない新聞と違って、気楽に未確定情報を流しているように見える。

 いちばん先走っていたのがテレ朝で、ついでTBS。NHKが一番控えめだった。今回の焦点は政権交代だから、自民の大物が苦戦したり、落選したりという展開が見どころ。先走って数字をどんどん伸ばしてくれた方が、見る方としては面白い。

 中継はテレビだけが持つ強みである。勝った、負けたのほか競り合いもある。女性候補に追いつめられた森喜朗氏の事務所は、灯りも消え、カーテンを閉め切って、一時報道陣の立ち入りも禁止していた。これほど当夜の自民党を象徴する絵はなかったろう。

 大勢が見えたのも早かったが、民主が308とは恐れ入った。小選挙区制のマジック。前回は自民がこれをやって、「小泉チルドレン」が生まれた。今度は「小沢チルドレン」だ。党が支持を保ち続けないと「明日はわが身」になる。その意味では真剣勝負になろう。

 そのためなのか、民主党の幹部は一様に笑顔が少なく、発言も慎重だった。鳩山代表は、「数におごってはならない」と控えめで、別の幹部は「いよいよわれわれが試される」といった。

 民主党がやろうとしていることは、全くの未体験ゾーンである。しきりにいわれた「財源」には、「予算の組み替え」をやるといい、「国家戦略局」 の設置、党と政府の一元化、事務次官会議の廃止、省庁に政治家を100人配置‥‥どれも自民党がやってきたことの裏返し。霞ヶ関と永田町をひっくり返す話 である。

 こうした場合、もっとも変化に対応できないのが、当の政治家たちであり、ジャーナリストたちである。長年にわたって55年体制、自民ルールにひたってきたのだから仕方がない。

 細川連立政権が誕生したときがそうだった。あれは8派の寄り集まりで、新聞には「八岐大蛇(やまたのおろち)」みたいな愉快な怪獣のマンガが 載った。8つの頭は考え方が少しづつ違うのだから、閣僚の発言がときにずれた。すると、野党の自民党が「閣内不一致だ」と責め立てる。新聞も書く。

 連立政権というのは、個別の政策で一致していればそれでいい。それぞれの党の存立に関わるような哲学の一致までは無理だ。だからこそ連立なので あって、ドイツでもイタリアでも、連立の国はみなそうしている。だから政策がまとまるまでにも時間がかかる。民主主義とはそういうものなのだ。

 これがわかっていなかった。次の自社連立でもこれは変わらず、再び自民の多数時代になって、今度は参院のねじれに対応できなかった。新聞、テレビは二言目には「衆参のねじれがあるから動きがとれない」と書く。福田首相はこれと選挙の重圧で政権を投げ出してしまった。

 ねじれに対応するには、参院で野党の法案修正に応じるなど話し合いに頭を切り替えるしかない。だが、これができない。結局は55年体制なのであ る。自民党の政調と霞ヶ関が作った政策を、粛々と衆参両院を通すことしか頭にないから、修正などとんでもない。政治とはそういうものだと。

 民主党の青写真は、これにまとめて決着を付けようとしている。「国家戦略局」と「一元化」は、予算策定を官僚の手からとりあげ、党と政府のカベ をなくすものだ。特別会計のヤミも、野党ではのぞくことすらできなかったものを、初めて手にするわけである。何が出てくるかわからない。

 とんでもない大変革である。本当の発案者がだれなのか、知りたいくらいだが、はたしてメディアは頭の切り替えができるだろうか? 連立政権すら理解できなかった政治記者たち。なにしろ彼らの頭の中は、古いルールでいっぱいなのだから。

 政権交代が現実のものになったというのに、翌朝のテレビトークでは相変わらず、「財源はどこに?」「霞ヶ関とどう折り合いをつけるか」とか、新聞にも「参院は単独過半数ではないから、安定が‥‥」なんて話がおどっている。

 鳩山体制が動き出したとたんに、ひとつ先のシナリオになっているはずだが、いまはまだ、頭がついていっていない。そして遅かれ早かれ、日本中が切り替えを迫られることになる。もたもたしてると、国民にも置いていかれるぞよ。