2009年11月13日金曜日

スチルカメラの突撃


 イギリス人語学教師の死体遺棄容疑で逮捕された市橋達也(30)の送検取材(12日)で、車の前に飛び出したTBSのディレクター(30)が公務執行妨害で逮捕された。これは珍しい。しかし、どうやら理由があった。

 そもそもは前日の護送取材である。これは、めちゃくちゃだった。東京駅ホームでは、テレビカメラを押しのけてスチルカメラが突撃するのを久しぶりにみた。よくまあこれだけと思うほどのカメラマン。いったい何人いたか。

 ところが結果は、市橋が黒いジャンパーをすっぽりかぶせられていたから、車に乗るときなど、それこそ一瞬をとらえたところが何社か。あとは見事 空振りだったのである。そこで、行徳署に「送検では顔を撮らせてくれ」と申し入れてあったらしい。一般人を閉め出し、押し合いは避けるという了解である。

 この日も250人くらいいたらしいが、規制線が張ってあって、みな脚立に乗ったりして位置を保っていた。警察も顔を隠さなかった。そこへTBSが1人だけ飛び出したわけだ。警察にしてみれば、「自分らで決めたルールも守れないのか」となる。

 そして1人が飛び出したあとは、部分的にだが前日とまったく同じになった。バカ丸出しとはこのこと。現に顔はなんとか撮れているのだから、わざわざ騒ぎを起こす必要なんかない。

 なぜああなるかというと、ひとつは人権への配慮から警察が顔を出さなくなったこと。今回はとくに、整形したあとの顔がひとつのポイントだった。混乱は必至だから撮れないかもしれない。そこで何人もカメラマンを出す。さらにまた混乱する‥‥。

 もうひとつは、スチルカメラにある。市橋騒ぎは戸外だから、あたりへの迷惑もあまりないかもしれないが、記者会見となると話が違う。あのガチャガチャ、ピカピカは実害が出る。会見の話がナマでは聞こえないことがあるのだ。

 日本郵政の西川善文社長の退任会見はひどいものだった。席に着くやいなや、西川氏の鼻の先でガチャガチャ、ピカピカだからたまらない。「カメラ がうるさい」「話せない」。ようやく収まって、「私は本日辞任を決意いたしました。で、この……」と顔をあげたとたんに、またガチャガチャ、ピカピカ。

 氏は「出て行ってくださいよ。こんな近くでガチャガチャやられたら、頭の悪い私が混乱しますよ」。テレビだからマイクで聞こえたのだが、現場の ライターたちはおそらく全部は聞こえなかっただろう。そのために、記者たちはみな小さな録音機をテーブルに並べている。それじゃ話が逆だろう。

 スチルカメラは東京オリンピックでワインダーがついてからずっとこうである。もう45年にもなる。昔のワインダーはもっと音が大きかったが、フィルムには限りがあるから、自ずと回数は抑えられた。それがいまはデジタルだから、枚数は無制限に近い。

 おまけに最近はカメラの数がべらぼうなうえに、会見では表情を撮るのだから、ずっとシャッターを押し続ける。会見が終わるまでガチャガチャ、ピカピカ‥‥。

 テレビカメラの方は、会見場では三脚で固定しているからおとなしい。音もしない。しかし、ひとたび動き出したら始末が悪い。やみくもに被写体に近づこうとするから、まわりはみんな敵だ。メディアの連帯感なんて吹っ飛ぶ。混乱のもうひとつの原因である。

 そのテレビのレポーターが西川会見を、「1メートルくらいで撮るんですから‥‥といって撮らないわけにもいかない。報道陣のなかでの話し合いになるのでしょうが」と、日頃の押し合いを棚にあげていっていた。たしかにポイントはそこだ。

 メディアの多様化で、そうした話し合いがしにくいのは確かだ。しかし、きちんとしようと思えば、できなくはない。現に行徳署の2日目には、 TBSが飛び出すまでは、みなお行儀よくしていた。いちばん話が通らないのもまた、テレビなのである。逮捕は一罰百戒のつもりだろう。

 だから会見ならなんとかなる。西川会見だって、もっと大きな部屋なら問題にならなかったかもしれない。ただ、事件の発生ものはだめだ。話し合いなどする余裕はない。するとまた元の木阿弥。ずっとその繰り返しなのである。

 ならばせめて、音の出ないカメラくらい作れないものか。一番の騒音は、シャッターチャージのモーター音なのだそうだ。技術的にはたいした問題ではなかろうと思うのだが、音が全く出ないと今度は別の問題が起こるのだと。

 コンパクトデジカメや携帯カメラは、本来音はしない。ところが、スカートの中を撮ったりする不心得者がいるからと、わざわざ音を出しているのである。なにやら、電気自動車に音をつける話と似ている。

 何かがおかしくないか、世の中‥‥。

2009年11月6日金曜日

思い出した歴史のイフ


 東北大学と朝日新聞が共同で、農家の意識調査をやった。調査は9月から10月にかけてというから、政権交代を受けて、揺れる農村をつかまえようというのは、地味だが、なかなか目のつけどころがいい。

 コメどころ宮城、秋田、山形、新潟の農家に、農協と政治の関わり、補助金について聞いている。いずれも農協を中核に自民党の金城湯池だったところだが、今回は政権交代に動いた。

 結果も面白い。「農協と政治」では、「政治に関与すべきでない」が29%、「自民とも民主とも距離をとるべき」が25%。民主党の「戸別所得制 度」には、「期待する」「どちらかといえば期待」があわせて58%、減反を受け入れても「参加」「どちらかといえば参加」が計61%だったが、「制度がよ くわからない」が90%だった。

 かつては米価、近年は補助金で、長年自民党とおんぶにだっこを続けて来た農家の戸惑いがそのまま出ている。わけても自民党の集票マシンとして、地域を牛耳ってきた農協のシステムこそは、日本の農業をこんなにしてしまった元凶である。これに対する苦い思いも出ている。

 JA農協中央会は政権交代後、自民党べったりから「全方位外交」に転じたが、時すでに遅し。民主党の、というより小沢一郎の「補助金直接払い方 式」は、明らかに農協はずしである。制度が動き出したら、少なくとも政治面での農協離れは一気に加速するだろう。小沢らしい戦略だ。

 朝日の記事には、「脱農協に挑む農家」という特集があって、農業に経営感覚を持ち込む意欲的な試みがいくつか紹介されていた。なかには株式会社 で、実質第2の農協の役割をはたしている例もあった。読みながら、「農地改革が目指したのはこういうものだったんだろうな」と思った。

 農地改革は連合国軍総司令部(GHQ)がやったと思われているが、実は違う。昭和20年10月、幣原内閣の松村農相が「自作農の創設」を発表してわずか4日後に、法案ができていた。そんな大改革の法案が4日でできるわけがない。農林省は戦前から準備していたのである。

 中心にいたのは、農政局長だった和田博雄である。構想は革新的な官僚の間では早くからあった。江戸時代以来の農業形態を改め、農業を、工業や商業と並ぶ産業として育てる。それには、自作農の創設しかない。

 しかし、国会は地主階級の代表者ばかり。そうした考え自体が危険思想とみなされた。法案を作っても常にたたきつぶされた。和田はでっちあげの企画院事件(思想弾圧)の首謀者として逮捕されてもいる(無罪・復職)。

 だから和田にとって、敗戦とGHQの登場は千載一遇のチャンスだった。前近代的な不在地主の一掃は、財閥解体の流れとも一致する。乗り気でなかったGHQをどうくどいたのか、とにもかくにもGHQの改革の1項目に加えてしまったのだ。とんでもない官僚がいたものである。

 しかし抵抗勢力は手強かった。戦時中に企画院事件を仕組んだのは、平沼騏一郎だったといわれ、戦後も鳩山一郎、河野一郎がたちはだかった。なんとも皮肉な名前が並ぶ。

 吉田内閣では、農相の引き受け手がなく、困り果てた吉田茂は、局長だった和田を農相に据えてしまう。反対する鳩山、河野を、三木武吉が「GHQが社会・共産に組閣させたらどうする」と脅しつけて押し切ったといわれる。

 和田の哲学の基本は、農業の自立にあった。基本は「農地をもたせる。しかし米価はあげない」というものだった。「苦しんでこそ、産業として育つ」という考えである。

 和田は、社会党の片山内閣で経済安定本部総務長官になった。「傾斜生産方式」の重要項目のひとつが「化学肥料」。食料増産のためではあったが、農業の自立のためでもあった。事実これで、農業の生産性は大きく伸びたのである。

 だが、歴史の皮肉というのか、片山内閣は短命に終わり、次の芦田内閣は、肥料にまつわる「昭電疑獄」で倒れた。和田は万年野党の社会党に入ったことで、以後農政に携わることはなかった。

 昭和30年、保守合同で誕生した鳩山自民党は、米価を上げる。毎年霞ヶ関をとりまくむしろ旗のなかで、生産者米価引き上げの音頭をとったのは農 協である。かくて農家は国の金を待つだけになり、農業の自立は遠のいた。壊れていく農村を、和田は、どんな思いで見ていたことだろう。

 皮肉といえば、吉田茂は第2次組閣で、和田の安本長官起用に抵抗する鳩山らに手を焼いて、和田を自由党に入党させようとした。これは、和田の周 囲が反対して実現しなかったのだが、もし、彼が自由党に入っていたら……日本の農村も、政治そのものも、かなり違ったものになっていたのではないか。

 案外忘れられている歴史のイフを、朝日を読んで久しぶりに思い出した。