2011年1月26日水曜日

鈍感につけるクスリ



 まあ、前代未聞である。殺人事件の被告が黙秘していた内容が、本になって出版されてしまった。警察はあわてて、本に記された現地へ飛んで裏付けをとる始末。それを報ずるメディアの鈍感がまた、前代未聞ときたもんだ。

 本を書いたのは市橋達也被告(32)。07年に千葉・市川市で、英会話教師の英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさんを殺害したかどで起訴されている。が、09年11月に捕まるまでの経緯は黙秘していたらしい。

 それが、「逮捕されるまでーー空白の2年7ヶ月の記録」(幻冬舎)という手記になって26日発売された。「黙秘を続けてきた逃走生活の全貌‥‥カバー絵も挿絵も本人直筆」とある。

 市橋は容貌魁偉で、6尺豊かの大男だ。その図体でどこへもぐっているのか、やれ「新宿3丁目じゃないか」とか、大いに詮索のタネになっていた。しかも、最後が整形手術から足がついたものだから、大阪から護送された東京駅の取材陣の大混乱も記録的だった。しかし、千葉県警が送検してからはばったりとニュースが途絶えていた。

 それが、24日だったか、「市橋は沖縄の離島に潜伏していた」という断片情報が、ネットや一部新聞で小さく伝えられた。「え? 何で今頃」といぶかっていたら、手記が出るらしいとわかった。そういえば、この1年2ヶ月、何のニュースもなかった。ひょっとして、ずっと黙秘していたのか? まさか。

 その「まさか」だったのである。内容の一部が、新聞、テレビにぽろぽろと出てきた。とくに沖縄の離島の話は、テレビ向きだから、早速レポーターが飛ぶやら大騒ぎである。

 沖縄南部久米島の沖にあるオーハ島。住民は4戸という小さな島で、また格好の隠れ家になる、かつての米軍の監視所というコンクリートの小屋があった。市橋は沖縄本島で働いたり、生活用品をそろえ、図書館などでサバイバル技術を調べたりして、島で自給自足。前後4回渡っていたという。

 手記には、「蛇の首をスコップの刃で切って、ぶつぎりにして焼いて、ネコと一緒に食べた。実においしかった」「潜水して、ウニ、海老、ナマコを採った」などと記している。案内の島民がレポーターに、「薮へ入るとハブがいるから気をつけて」といっていたから、市橋が食べたのはハブだったらしい。

 彼は現場から逃走したあと、東京、新潟、青森、大阪と転々とし、大阪では仕事もして、離島へ渡る前には、四国のお遍路もしていて、「リンゼイさんが生き返ると思った」とぬけぬけと書いている。

 この間に、自分で「針と糸を鼻に通した」「ハサミで下唇を切り取った。血が出た」などと、自分で顔に手を入れたことも記している。それを人目につかず、どこでどうやったのか。そもそも彼は裸足で逃げた。クツはどうしたのか。金はあったのか。これらも一切警察からは出ていない。

 千葉県警はいったい、どこまで把握していたのか。なんにしても、メンツは丸つぶれである。だいいち、出版社がどうやってわたりをつけ、同意をとって、さらにはいつ執筆して、大部の原稿をどうやって出版社へ渡したのか。警察は見てなかったのか。弁護士は何をしていた‥‥。

 どのみちいま、県警と千葉地検はひっくり返るような騒ぎのはずである。ところが新聞もテレビも、「手記が出ました。内容はこれこれ」とばかり。たまたま見ていた日テレの「スッキリ」で、テリー伊藤が「裁判の前に本が出るのはありえないこと」といっていたが、そこから先がない。話は「遺族はたまったもんじゃない」という方へいってしまった。

 ジャーナリストたるもの、こうした事態に「くそっ、やられた」と思わなかったらどうかしてる。それもニュースメディアではなく、出版社にである。出版社にできたことが、どうしてできなかったのかと。

 常々、「警察がおかしい」と感じて書いたりしてはいるのだが、これにはメディアのありようが深く関わっている。警察とはもともと隠すものだ。が、その堅い口をこじあけるのが、サツ回り記者の腕であった。いまそれが通用しないらしい。なによりも警察とメディアの間に信頼関係がない。

 日々の事件報道をみていれば、警察情報の出方がわかる。発表がおかしくても、データが足らなくても、はいはいと引き下がっている記者の姿が見える。最初からわかっていたはずの事柄が、発生から何日も経ってから、「警察への取材でわかった」という記事が、何と多いことか。

 かつては、「もっとデータを出せ」「捜査の方向がおかしいんじゃないの」と文句をつけたりは当たり前だった。信頼関係があって、互いが必要だったから、それができた。下手な記事を書くと、次からはネタがはいらなくなる、リスクと緊張感のある信頼関係だった。

 今回のケースだって、「市橋がしゃべらない」ということくらいは、担当記者も知っていただろう。しかし、起訴されたあとだからと、警察が口を開いてくれるのを待っていた結果がこれだ。警察がこければ、メディアもこける。

 しかも各社横並びだ。彼らがもし自らの鈍感を恥じていないとしたら、もうつけるクスリはない。

2011年1月24日月曜日

案外長期政権?


 久々に舛添要一氏の写真が朝日新聞に載った。何かと思ったら、菅政権との距離が開きつつあるという内容だった。一時は入閣という観測もあったが、それが与謝野馨氏になってしまい、舛添氏はいま、改造内閣をボロクソにいってるらしい。

 ただその前の、まだ芽があった1月8日に、彼はブログで「ひょっとしたら長期政権になるかもしれない」と書いていたという。自分がその一員になってとの想定からだろうが、破れたいまは、都知事選出馬の話もあるらしいから、その見方は変わっていないのかもしれない。

 これで思い出した。山仲間の忘年会で、来年(つまり今年の暮れ)の日本がどうなっているかの予測を賭けようとなった。幹事が出した項目のひとつに「首相はだれ?」とあった。他は「円はいくら?」「東証は?」などなど。いちばん当てたヤツがみんなから1000円を巻き上げる。

 首相については、ほとんど反射的に「菅直人」と書いた。他にいないからだ。解散も絶対にない。こんなひどい状況で、民主党内に「代わりにオレが」という酔狂な人間がいるとも思えない。1年たっても状況は変わらないだろう‥‥いまや1年半も続けば、立派な?「長期政権」ではないか。

 あらためて、政治面の記事をみると、そのわずか1年先の展望すら出てこないことにがく然とする。せいぜいが、予算が通るかどうか。6月の税制改革案がどうとか。「解散」だの「ポスト菅」だの言葉は出ても、現実味がない。

 いまはもっぱら与謝野氏の変節の話だ。やれ、自民党の比例区当選なのにとか、鳩山氏が激怒している、財界人が与謝野氏の祖父、鉄幹の「六分の侠気」の詩をひいて皮肉った、などなど。

 しかし、その同じ新聞に、与謝野氏のインタビューが大きく載っていて、税と社会保障の一体改革案を語っていた。テレビでも大いに語っていて、彼が改造内閣のキーパーソンであることは間違いない。

 もともと、社会保障制度と財政再建の両立には、消費税引き上げしかない、と一貫して主張。麻生政権で、それに法的な道筋をつけた(税制抜本改革の中期プログラム)人だ。財政再建にカジを切った菅政権には、いちばん必要な頭脳ということになる。

 ただ与謝野氏はこれまで、民主党の経済・財政政策を厳しく非難してきた。だから自民党をはじめ野党は、与謝野氏の「変節」攻撃を突破口に内閣を追い詰める腹だ。また民主党内にも異論はあると、メディアはしきりに、先行きの危うさをいう。

 与謝野氏はしかし、入閣に応じた理由を「年齢だ」とはっきりいう。いま72歳だし病気もかかえているから、やりたいことをやるには、これが最後の機会だと。一方の菅首相にしたって、与謝野氏の起用そのものが大ばくちで、ある意味腹をくくっているわけだから、一世一代の大勝負は間違いない。問われるのは首相の器量である。

 今の日本の状況を考えれば、与党も野党もあるか、というのは、むしろ国民にはわかりやすいかもしれない。戸惑っているのは、政界とメディア。まだ、「変節」と「野党からの入閣」についていけないように見える。

 しかし、欧米ではこんなことは珍しいことではない。現にいまのアメリカの国防長官はブッシュ政権からの留任だ。イラクとアフガン問題が継続中だからでもあるが、代えようと思えばできたはず。代えなかったのは、それがベストだという判断だ。これに民主党内から大きな反対の声はなかった。

 経験豊かな政治記者たちも、また民主党の議員の多くも勘違いしているようだが、政権交代は何でもありなのだ。内閣の仕組みでも予算編成でも、議会の運営でも、それまでのルールにしばられることなんかない。ただ、上手にやれるかどうかは、自ずと手続きと手管と時間が必要だ。

 事業仕分けのような分かりやすいものはいいが、政府の業務のほとんどは官僚との共同作業だから、この間合いを自分のものにするのは、そう簡単ではない。これまでのところ、民主党はやることなすこと‥‥権力というものの意味、役人を動かすすべ、国内の民意と外交方針、地方との折り合い‥‥あらかたドジの連続である。その都度メディアがぎゃーぎゃーいえば、支持率が落ちるのは当然だ。

 菅首相が「仮免許」と口走ったのは、まさしくこの実感からだろう。野党暮らしから権力の中枢に入ってみての戸惑い、思わぬところをメディアにつかれる、手強い官僚、参院ではねじれで、かつてのしっぺ返しを食らう。おまけに党内には、小沢一郎氏というやっかいな虫がいる。

 では「本免許」はいつからなんだ? おそらくは与謝野入閣がそのスタートで、小沢問題にけりをつけた時点が、本格走行となるのだろう。後がないのだから、その走りっぷりは見物だ。与野党の激突も熾烈なものになるだろう。

 ただ、自民党時代と違って論争の一部始終は完全にオープンだ。どっちに理があるかは、国民の目に見える。メディアがつまみ食い報道や余計な誘導をしなければ、長期政権かどうかも、国民が正しく決められる。

2011年1月16日日曜日

傍観メディアなんかいらない


 日比谷のプレス・センターで、かつての新聞仲間と久しぶりに会った。互いに「ちょっと痩せた?」といった変化は当然だが、見たところ元気そうなのに、ペースメーカーが入っているんだと。こちらは「耳が聞こえないんだ」と、補聴器代わりのICレコーダーだ。

 友人は、ちょうどメディアの現状を語る元記者たちの集まりに出てきたところだった。メディアもいろいろだったらしいが、みなこのところの報道のありように、懸念を抱いていたという。

 それも、いましきりにいわれるメディア激変や経営の話ではない。報道現場のありように「どうなっちゃったんだ」「これでいいのか」というストレートな懸念である。まさに、「ご用聞き取材」など、このブログでいつも書いているようなことだ。

 友人は、朝日の夕刊をもってきて「素粒子」を指した。コラムの最後に「どうやら何も持ってなさそうな菅首相」さらに「一緒に沈んでしまいそうな日本」とあった。友人は、「ここまで書いていいのか」という。ああ、やはり同じことを感じていたんだ。

 私も実は、その1行が気になっていた。引っかかったのは、その突き放したような無責任ないい方である。これを読んだ読者の多くは、「菅首相のもとでは日本は沈む」と合点するだろう。日頃民主党政権に感じていることとそう違わないから、すんなりと落ちる。素粒子にはそれだけの影響力がある。

 しかし、語っているのは、アフリカやアジアの国のことではない。この日本の政治なのだ。そんな切迫感のない、よそ事みたいないい方を見ると、「お前は、どこの国の人間だ」といいたくなってしまう。不愉快だし、表現にも華がない。

 しかし友人によると、この記事の話をしたら、その場にいた朝日のOBは、「(朝日は)もう菅を見限っている」といったそうだ。これには、彼もあぜんとしたという。

 沈まないためにどうすればいいかを考えれば、いまは菅内閣を盛り立てる以外に選択肢はあるまい。その足を引っ張って、次の展望はあるのか? ちょうど内閣改造の日で、産経ですら一種のエールを送っていたのは皮肉だった。

 実はこうした口ぶりは、テレビのワイドなどでは当たり前で、みのもんたあたりは毎日のように口走っている。で、「いったい日本はどうなっちゃうんでしょう」で終わり。テレビとはそういうものだ。

 この結果、「菅はダメ」「政権交代は意味がなかった」というネガティブなイメージだけは確実に定着し、世論が形成されていく。それをまた世論調査ですくいあげては、「やっぱり支持率低下」という、いわば“自作自演”の繰り返しだ。

 前にも触れたが、御厨貴・東大教授が「メディアは政権交代を否定せず、育てるようにしてもらいたい」と懸念を述べていた、まさにそれである。素粒子がその片棒をかついでどうする。

 現実の政治に立ち戻れば、民主党は絶対に解散なんかしない。それこそ死にものぐるいで建て直しにかかるのは当然で、今回の改造で与謝野馨を起用したのが、象徴的だ。このある意味むちゃくちゃな葛藤から、次の時代を生み出してもらわないと困る。だが、メディアはこれにも、「一種の賭けだ」などと突き放し、「ポスト菅」をにらむ。

 民主党の政権運営がまずいのはたしかだが、ごたごたの大元をたどれば、あらかた小沢一郎にたどり着く。菅はその小沢を切ることに踏み切った。これは大転換で、むしろ遅すぎたくらいだ。政倫審がどうあれ、小沢は間もなく表舞台では動けなくなる。

 しかし、「ようやくすっきり」「再出発」というような論評は出てこない。相変わらず、「人事のバランス」「党内世論」がどうのこうのと、政局報道に終始している。なんという浮世離れ。自分の国の政治だというのに、危機感がない、当事者意識がない、怒りが足らない。

 報道の中立というのとも違う。現に自民党時代には、本気で肩入れする記者が大勢いたし、読売、産経は新聞としても方向がはっきりしている。そんな中で、政権交代も、小鳩の退陣も大方のメディアが歓迎したのではなかったか。

 にもかかわらず、菅政権に対してよそよそしいのはなぜか。まだ小沢かぶれが続いているのだろうか。だとしたら、民主党以上に、メディアの方向感覚はおかしい。政権交代の意義を正しくとらえているのか?と疑いたくなる。

 メディアがもし、ある時点で民主党支持を、あるいは政権交代支持を明言していたとしたらどうだったか。政権の行方にもこうまで傍観者ではいられないはずだ。アメリカのメディアは堂々と政治に踏み込む。だからこそ論に説得力もある。むろん、賛否はあるにしても。

 メディアが傍観論を流し続ければ、国民もまた傍観者になろう。それでなくても日本人には、「政治はお上がしてくれるもの」という根深い思い込みがある。民主主義を阻む元凶だ。政権交代は、これに深くくさびを打ち込んだのだった。国民もそれを知った。

 政治を考え直すまたとない機会に、ただ水をかけているだけのメディアとは何なのだろう。ひょっとして、これがご用聞き取材の根源なのではないかと、嫌な思いになる。

2011年1月12日水曜日

進化は退化?


 駅ホームからの転落事故が増えていると、朝日1面の記事。昨年の件数は過去最高になるかもしれない。転落の6割が酔客で、9月までで68件。前年を2割も上回るペースで、首都圏に多いのだと。

 で、事故防止の切り札が、ホームドア(可動式防護柵)だとして、社会面の方で、設置がすすまないという話がでかでかと出ていた。いわく「効果は際立っていて、ホームドアを設置したら転落事故はない」んだとある。当たり前だろう。

 ホームドアは新幹線から始まった。通過列車のある駅では、確かに必要だろう。スピードが違うのだから。それが、高齢者や障害者へのバリアフリーとして考えられるようになった。これはわからないでもない。

 しかし、実際に落っこちる人の半数以上(首都圏では8割)が酔っぱらいで、そのたかだか数十人だかの数字をあげて、だから整備を急げとなると、ちょっと待てよといいたくなる。かかる費用が、山手線だけでも500億円と聞くと、なおさらだ。

 汽車も電車も昔から走っていて、線路に落ちたら命にかかわるなんて、だれだって知っている。一方高齢者も障害者も酔っぱらいも必ずいて、時には落ちちゃうヤツもいる。これも昔から変わらない。わからないのが、事故件数が増えているという点だ。とくに酔客が。

 いまの酔っぱらいは、昔の酔っぱらいよりバカが多いのか? たとえそうだとしても、そんなものは自己責任だろうに。

 いま私は高齢者の範疇にはいって、時に足元がおぼつかなくなったが、ホームドアが必要だなどと感じたことはない。これからもないだろう。障害者や子ども連れにはむしろエレベーターが増えている方がいいはずだ。京王線では、車イスの乗客には駅員が付き添って乗車させ、降りる駅でも駅員が待ち受けている。これが本来ではないのか?

 例のライターの話を思い出してしまう。子どものライター遊びで火事が多いから、ライターに安全装置をつけろというやつだ。ライターも子どももいま始まったわけじゃない。マッチの時代はもっと危なかった。が、親たちがちゃんとそれを切り抜けてきたのだ。

 親がバカになったのを、安全装置にすりかえてすむ話か? そうじゃあるまい。これも、新聞、テレビがこぞって伝えていたが、その後どうなったか。経産省は安全基準とやらを作って、余分なコストで中小のライターメーカーをいじめて一件落着か。

 ガラパゴス化とは携帯電話のことだが、人間のバカさ加減を棚に上げて、別の形でおとしまえをつけるという日本独特のものはまだまだある。

 衝突事故を防ぐために、「ブレーキを踏まなくても止まる車」が話題だ。開発した方は得意満面のようだが、よく考えれば「そんなもの必要なやつは車に乗るなよ」といいたくなる。まあ、長距離トラックには必須かもしれないが。

 話は飛ぶが、ネパールではナマ水に気をつけろという。肝炎ウイルスである。相当高いところの清流でも危ない。若者がよくやられる。1980年だったか、現地の日本人医師に「いまのネパールの衛生状態は、日本の昭和10年代。あなたは12年生まれ? 大丈夫、免疫があります」といわれたことがある。水洗で育った年代は、免疫力がないのだそうだ。これは進歩なのか退歩なのか。

 いまや駅やファミレスにまである温水洗浄トイレも、外国人には出てこない発想らしい。使ってみれば便利だが、そのための電力と水はどうか。で、紙はやっぱり使うのである。どの先進国でも、そんなものを進歩だなどと考えない。ヨーロッパでは、いまだに車のトランスミッションは、マニュアルが主流である。ケチなのかもしれないが、それ以上に要らないものなのだ。

 身体だけではない。このところ、地震や台風、通り魔や理不尽な犯罪に巻き込まれた話になると、必ず「心のケア」というのが出てくる。そういう記事を読むたびに、被災した人には申しわけないが、人間がもろくなってるのか、と思ってしまう。

 私の年代でいうと、理不尽の最たるものは戦争だった。肉親が戦死する。空襲で罹災する。目の前で小学校が焼け落ち、振り返ればわが家も燃えていた。裏の家2軒は、防空壕を焼夷爆弾が直撃して一家全滅だった。しかし「心のケア」なんてだれもいわず、みななんとか折り合いをつけて生き抜いてきたのである。

 そこへまた経済短信に「脇見運転をどうやったら減らせるか?」という記事が出た。トヨタがデトロイトに「先進安全技術研究センター」を新設。「脇見運転を減らせるか」「子どものけがをどう減らすか」などを、大学や研究機関と協力して進めるのだと。投資額5年間で5000万ドル(42億円)。

 要は、人間の行動を分析して、コンピューターで指導が可能かどうかを探るのだそうだ。バカバカしい。2秒以上脇見をしたり、制御できないスピードになったら、天井からカナヅチがコーンと落ちてくればすむ話じゃないか。

 どう考えても、日本のガラパゴスは「人間の退化」に見えてしまうのだが、違いますかね?

2011年1月8日土曜日

ウィキリークスの時代



 内部告発サイト「ウィキリークス」には、どの国のメディアも戸惑ったようだ。これまでの情報秘匿の常識をくずかごに放り込んだのだから、まあ当然ではあろう。だいいちこれがいいことなのかどうかも、人によって判断が分かれる。

 情報を持ち出された方にしてみれば、政府だろうと企業だろうと、隠す以上はれっきとした理由があるわけで、それが表に出てしまうのだから、理不尽この上ない。「犯罪行為だ」というのも当然だろう。

 しかし、一般の人間にしてみれば、これまで新聞に出ていたことと違う事実や理屈がわかるのだから、「だましやがったな」と怒ることにもなるし、対岸の火事を見守るヤジ馬としては、これ以上面白いものはない。「もっとやれぇ」てなもんである。

 だから、その間に立ったメディアは困った。4月に流れたイラクでの民間人殺害の映像のように、ストレートなものなら、「ウィキリークスが」と右から左へ流しておけばいいが、企業や政府の文書とか、今回のような外交文書となると、どこまで本当なのかをみきわめないといけない。掲載責任というものがあるからだ。

 専門の記者がみれば、大きな流れの中で見当がつくものもあるが、多くはウラのとれない(だから秘密)事柄だ。メディアは「ウィキが流したが本当か」と当事者に迫ることになる。そこでつっぱねられたら、さあ、載せていいものかどうか‥‥。

 ウィキリークスの方も、独自の検証で本物だとはいっているものの、事前に大手新聞に流している。メディアは、中身が面白ければ必死に確認をとろうとするから、これを利用しているわけだ。ずるいといえばずるい。そのくせ、最終的に本物かどうかはわからない。なんとも始末が悪い。

 報ずるメディアにしても、とくに国益にかかわるとなれば、公開することは即ち相手を利することになる。これは悩ましい判断だ。このあたりはお国柄にもよるが、下手をすれば売国奴と非難されかねない。

 しかし、ここが面白いところだが、アメリカ人の言論・報道の自由についての考え方は、他の国とは大いに違う。イラク戦争が始まって間もなくだったが、NYTに「今後米軍はこのルートからこれこれの戦略でいく」という記事が出た。これにはびっくりした。どうみてもイラクを利することは明らかだ。

 だが米政府、軍は何の反応も見せなかった。勝ち戦だったこともあろうが、国民の知る権利は軍の機密より上、これが米国民のコンセンサスだったのだ。あらためて、民主主義の底堅さに感心したものだった。

 今回一番の被害者は、クリントン国務長官だろう。米外交の顔としてはバツが悪いことこのうえない。しかし、メディアの視線はそんなところにはない。あくまで、国民の利益になるかどうか、これだけだ。となれば、知らない方がいい情報なんて、きわめて限られるのではないか。

 総数25万件といわれる米外交情報の公開はいまも続いている。しかし、全部が報じられるわけではない。玉石混淆の石の方が多いということだろう。朝日新聞が最初のリークの一部を、外務省の情報分析官だった佐藤優氏に分析させていたが、これが面白かった。

 一口に言うと、いい加減な情報が多いという。彼はソ連の専門家だったから、ロシア関係情報では具体的にアナを指摘して説得力があった。なかには外交官が自分を売り込むためと思われるものもあって、米外交官の質までが読み取れるといっていた。

 確かに、公開しない方がいい情報もあるだろう。しかし、どこで非公開の線を引くかはこれまで政治家や官僚が決めていた。ウィキリークスはナマ情報を流すことで、その境界を吹っ飛ばしてしまった。情報を抱え込むことで専門家面してはいられなくなった。しかも、もはや後戻りはできない。

 ウィキリークスの本当の衝撃はここにある。現にアイスランドでは、金融情報が流されたために、一般人までが情報を共有して金融機関を告発し、政府を動かすまでになった。ナマ情報には歯止めがない。これに新たな境界を設定することはできるのだろうか。政府も企業もメディアも、あらためて考えざるをえなくなった。

 とりあえずは、どこでも内部告発に備えて情報管理を厳しくすることになろう。何でもかんでもマル秘になれば、情報はますますとりにくくなる。これは間違いない。しかし、そんなことを心配しても始まらない。

 情報を漏らそうとする人間にとっては、新聞やテレビよりウィキリークスやYouTubeの影響力の方が、はるかに魅力的だろう。先の警視庁情報のように、ネットを巧妙に使えば、ウィキリークスの必要もなくなる。

 「混沌とした荒野」と呼ぶ人もいる。これがはたしていいのか悪いのか。だれもすっきりとした答えを出せないでいる間に、われわれの方がリークに慣れてしまうのではないか。これがちょっと怖い。