2012年5月22日火曜日

問われている本物度

 週刊誌の草分け「サンデー毎日」と「週刊朝日」が、卒寿を迎えたそうだ。毎日の企画を、朝日があわてて追いかけたのだと、天声人語が書いていた。張り合いは、大阪での「大毎」「大朝」以来だから100年以上になる。ライバルあればこそ、互いに磨かれた。

 両社のカラーの違いを、毎日出身でNHK会長だった阿部慎之助が、「朝日の編集局は小学校の職員室。毎日? ああ、あれは飯場だよ」といった(週刊朝日)ことがある。実にうまいいい方だった。それも、地方でも東京でも海外でも、職員室と飯場の違いがあるのだから驚く。

 いってみれば、毎日の記者は油断も隙もならない。なに、向こうも同じことをいうだろうが、少なくとも個性的で「オレが、オレが」が多かった。それが毎日の強みであり、スター記者を育てる風もあった。一方朝日は、全員がすぐ歯車になれる。記事に名前は出さない。スター記者も本多勝一氏以後はいない。自ずとそれがカラーの違いになる。大学を出るまでは一緒なのに、面白いものである。

 同じ一般紙でも違うのだから、媒体が違えば記者はもっと違う。社会部の書き手で、頭も筆もやわらかい男が週刊朝日に移ったら、目一杯やわらかく書いても、「まだ硬い」といわれたそうだ。同じ会社の新聞と週刊誌でそんなに違うのなら、出版社系の週刊誌やスポーツ新聞だったらもっと違うんだろう。

 面白かったのが、ロス保険金疑惑だ。テレビも週刊誌もスポーツ紙もそれでもちきり。日本中が知っているというのに、一般紙には一向に記事が出ない。朝日にはとうとう、「なぜ書かないか」という前代未聞の記事が出た。要するに、いくら取材しても「尻尾がつかめなかった」のである。

 だが、他のメディアは「疑い」「うわさ」だけでも書ける。放送できる。メディアの特性の違いを、これほどはっきりと実感した例はなかった。ただこの事件では、突っ走ったメディアの多くが、手痛いレッスンを受けることになった。

 拘留中の三浦和義氏(故人)が、印刷メディアを徹底的に読んで、片っ端から名誉毀損で訴えたのだ。結果、事件の本筋では「真実と信ずるに足る根拠」で通っても、彼の私生活や生い立ち、事件に直接関係のない記事では軒並みメディアが負けた。皮肉にも裁判が、「どこまで書けるか」を示す結果になった。

 とはいえ、これは名誉や人権の話である。メディアがインチキというわけではない。記者の感覚は大いに異なっても、それぞれに読者、視聴者をもっている、どれも必要なメディアだ。それぞれの特性の違いをはっきりと意識させた事件であった。

 そのメディアはいま、さらに多様化した。とりわけネットは、情報のスピードと利便性で、情報の流れすら変えてしまった。主としてここで活躍するフリーのジャーナリストたちは、既存メディアの記者たちより自由で、思い切った切り込みも可能だ。いわば新しい血である。

 ところが、既存のメディアは彼らを「鬼っ子」扱いだ。記者クラブにいれない。政府や企業が彼らを会見から閉め出しても、異を唱えない。看板や記者クラブに守られて、どうも勘違いをしているらしい。

 ジャーナリストは、どんな組織にいようと価値観が違おうと、最後は個人である。媒体のカラーによる違いはあっても、書くものが「本物」かどうかで決まる。フリーの記者は看板がないだけに、「本物」をかけて厳しい日々を生きている。書いたものを読み、行動や主張をみれば、本物度は一目でわかる。

 むしろこの1年余、それを疑われてきたのは、既存メディアの方である。福島原発報道では、天下に恥をさらした。国の規制を受け入れ、上空を飛ぶことも現地に入ることもしなかった。代わりに防護服を着て突っ込んだのは、フリーの記者たちだ。外国の記者までが入っている。恥を知れ、といいたい。

 政府のバリアも東電のカベも突き崩せなかった。「あの日(311日)何があったか」を書き始めたのが年末である。疑うことを知らないお人好し。ご用聞き。権力と戦うことも知らない。それが「老舗のジャーナリストでござい」とばかりに、フリーを差別してどうする。

 ジャーナリズムをなんだと思っているのか。クラブで発表を聞き、記者会見に出て、ネットで情報集めて上手にまとめて‥‥これではサラリーマンと大差ない。いや、サラリーマンには、儲かった損したと真剣勝負がある。大看板のジャーナリストには、それすらないのだ。

 情報とりはもっといかがわしいワザである。ネタは会見やネットには転がっていない。嫌がる相手に食らいつくのも、籠絡するのも、場合によっては脅すのもワザのうちだ。本当のニュースは人の口からしか出てこない。

 しかし、それを可能にするのは、権力に向き合う姿勢だ。反骨だ。怒りだ。そしてメディアとしての連帯感。もう長いことここにひびが入っている。だから権力は安泰だし、メディアはなめられる。ばかりか、フリーの側からも、不信感を突きつけられている。既存メディアは自ら、敵を増やしているのだ。本当の敵はそっちじゃない。

2012年5月8日火曜日

引退勧告とは痛快な


 小沢一郎氏の無罪判決は、大方の予想通りだった。起訴の根拠になっていた検察調書がインチキだったのだから、理の当然であろう。問われたのも、政治資金報告書の虚偽記載を、小沢氏が知っていたかどうか。いってみれば、どうでもいい話だ。国民が知りたいのはそんなことではない。

 それでも裁判は裁判、無罪は無罪だ。さっそく翌日から小沢氏は元気に野田内閣の攻撃を始め、新聞・テレビもそれを大きく伝える。「今後の政局は」「党員資格停止処分解除」と完全な「小沢ペース」だ。なかでたった1人、ずばり本筋に切り込んだのが、屋山太郎氏(写真)が産経の「正論」に書いた「小沢氏よ『無罪』を引退の花道に」だ。これは痛快だった。

 まずは不動産である。07年に13カ所もの小沢氏名義の不動産所有が問題になった時、「政治団体では登記できないために小沢名義にした。実際は陸山会のものである」という「確認書」を示した。今回裁判で問われた世田谷の土地も含まれる。

 ところが裁判では、「自己資金で買った」とすりかわった。あの「確認書」は何だった。うち6通は、あとから同じ日付で作られたものだ。そもそも13もの不動産をなぜ買いあさったのか、と屋山氏はたたみかけ、師匠の田中角栄氏を真似ているのだと断じた。角栄流は、政治は数、数は選挙、選挙は金、金は不動産から……で、そのまま小沢流である。

 まだある。「角栄氏は党のカネも自分のカネも使ったが、小沢氏は自分のカネを使わず、政党助成金を握って大派閥を形成した」。民主党はむろんのこと、解党した新進党の残り分も私物化した。公金で「党中党」を築いた。「人のふんどしで相撲をとった」とボロクソだ。

 マニフェスト、外交を例にあげて、民主党をつまずかせた「張本人は小沢氏」で、反省もせず野田氏を攻めるのは「恥知らず」ときめつけ、最後に「強く政界引退を勧めたい」と結んでいた。実にすっきり。いまの小沢氏には、これがいちばんふさわしい。

 とはいえ、これらはすでに表に出ている話である。なのになぜ、メディアも国会も押さないのかが解せない。どうせ尻尾はつかめまいということなのか。何か勘違いをしてはいないか。自ら追及して「恐れ入りました」といわせようなんて、とんだ心得違いだ。刑事責任は裁判所にまかせておけばいい。国会やメディアができることは、しゃべらせること、これに尽きる。

 しかし、屋山氏も書いているように、「自分に都合の悪いことは黙る」のが小沢流。国会喚問には、小沢派議員が防波堤になって抵抗する。周到なのだ。「恐れ入りました」がメディアの方では情けない。

 小沢氏をめぐる話の大元が、不動産とカネのいかがわしさにあることは、誰もが知っている。検察は「我こそは正義」とばかりに捜査に入り、いわばとば口の虚偽記載で秘書たちを起訴したが、肝心のカネの動きでは尻尾がつかめなかった。小沢氏本人は「嫌疑不十分」で不起訴になった。

 これを受けた検察審査会が起訴に持ち込むのだが、起訴判断資料になった秘書の証言がでっち上げだったのだから、ひどい話だ。検察はそれを知らん顔して見ていたわけだ。審査会もいい面の皮である。ただ、刑事責任では無罪とした判決も「いかがわしさ」に言及していた。道義的な責任はそのままである。

 なぜ政治資金で土地や建物を買った? 資金はどこから? 「確認書」とは何なのか。この大元こそ、国会が追及すべきことではないのか。道義責任で十分ではないか。内容の重さでいえば、裁判で争われた虚偽記載なぞ、屁みたいなものだ。

 団体では不動産登記できないということは、団体が持ってはいけないということだろう。そんなことをする国会議員はほかにいない。小沢氏がぽっくりいったら、主のいない政治団体の不動産はどうなる? 法的には小沢氏のものだ。税務署はどう見るかな? 国会の追及はこれで十分なのだ。

 アメリカなら、真っ当な説明ができないというだけで、議員は政治生命を絶たれるだろう。小沢流の「だんまり」は通用しない。あらためて、民主主義の深度の違いを感ずる。アメリカの有権者なら、小沢氏の行動を見逃しはしない。メディアだって黙ってはいまい。「臭いの元」にも突っ込めない日本メディアのふがいなさを、あらためて思う。

 いまのメディアにはなお「剛腕待望論」が根強いように見える。氏の実像を知らないのだ。彼の行政実務経験は、わずか8ヶ月の自治大臣だけ。直後に「若くして」自民党幹事長に抜擢され、自民党をおん出て以後は政局の人である。

 民主党のマニフェストだって、選挙目当てのバラマキだ。財務省を締め上げれば財源は出ると豪語していた。が、いざ政権に就いてみたら、そんな単純なものではなかった。これがいまの混乱のもとである。にもかかわらずなお「マニフェスト」と言い続けているおかしさを、メディアは書こうとしない。剛腕は、カネがなくては振るえないのである。

 いまのメディアを象徴する光景が記憶にある。参考人招致を問われた小沢氏が「三権分立をどう思っているの?」と逆襲した。質問した記者はこれで立往生。昔なら、他の記者から「三権分立だからできるんです」「刑事裁判に影響するとは、裁判官に失礼でしょう」「あなたこそ三権分立をどう思っているのか」と、声が飛んだことだろう。
 なぜ切り返せないのか。国民はちゃんと見ている。この方がはるかに怖いぞ。